創設
第1回大会は1952年1月20日、別府駅前をスタート、大分市白木を折り返す35キロだった。
当時、ヘルシンキ五輪を控えて別府市で合宿していた五輪代表候補の記録会として始まった。
大分県中津市出身で、五輪代表候補のコーチを務めていた池中康雄が中心となって創設した。
池中自身、五輪候補に挙がりながら、戦争のために出場の夢を絶たれた。「五輪への道を開くためにも地元で全国大会を開催したい」という池中の熱い思いから別大マラソンの歴史が始まった。
第1回大会で優勝したのは五輪候補ではなく、一般参加した浜村秀雄。
参加選手37人、完走者14人と規模は小さかったものの、沿道には黒山の群集で埋まった。
以降、寺澤徹、君原健二、宗兄弟、谷口浩美、森下広一など数々の名ランナーを世界へ輩出。
別府湾に沿って走るコースは高低差約7mと平坦であるため、選手の記録更新にも寄与してきた。
大会創設の池中の熱い思いは、大分県勢のトップでゴールした選手に贈られる“池中杯”で継承されている。
世界最高
12回大会(63年)で優勝した寺澤徹(倉レ)のタイム2時間15分15秒8は、アベベ(エチオピア)の記録を0・4秒上回る当時の世界最高記録だった。
2位の渡邊和己(九州電工)、3位の大谷治男(東京急行)も日本最高、4位から10位までも大会新という好記録続出の大会だった。以後、寺澤は15回大会まで4連覇する快挙を成し遂げた。
当時、寺澤は「別府男」の異名を取った。
別大マラソンを連覇したのは、寺澤の他には19回、20回に優勝した君原健二(新日鐵)しかいない。
16回、22回大会でも優勝した君原の優勝回数4回は、寺澤と並んで大会最多タイ。
世界歴代2位
日本人で初めて2時間10分の壁を破る歴史的な舞台となったのは別大マラソンだった。第27回大会(78年)で優勝した宗茂(旭化成)の2時間9分5秒6。
クレイトン(豪州)の世界最高記録と32秒差。終盤の向かい風がなければ、世界最高樹立も夢ではなかった。
いずれにしても、この記録によって、低迷していた日本マラソン界を活気付けた。
旭化成の躍進
これ以降、別大マラソンは旭化成勢の躍進が続く。
佐藤進(旭化成)が28回大会で3位、29回大会で2位。30回大会では宗茂(旭化成)と宗猛(旭化成)が1、2フィニッシュ。そして第34回大会(85年)ではマラソンデビュー戦の谷口浩美(旭化成)が2時間13分16秒で優勝を飾る。谷口はバルセロナ五輪の時と同様、このデビュー戦でも3キロ過ぎで転倒。両足親指を痛めて靴下は血に染まっていた。第35回大会では児玉泰介(旭化成)が日本歴代9位の2時間10分34秒の好タイムで優勝した。
そしてバルセロナ五輪を翌年に控えた第40回大会(91年)は語り継がれる名場面がある。新星・森下広一(旭化成)と中山竹通(ダイエー)との競り合いだ。森下は、当時、国内では無敵だった中山と最終版まで激しい競り合いを繰り広げた。そして39キロ過ぎ、中山が「行ってもいいよ」と森下の肩をたたき、声を掛けた。言われるまま森下はそのまま飛び出してゴール。2時間8分53秒の初マラソン日本最高記録で優勝した。この初マラソン日本最高記録は、第58 回びわ湖毎日マラソン(2003年)で藤原正和(中央大学)が2時間8分12秒を出すまで破られなかった。
そして旭化成勢は最近では榎木和貴が第49回大会で2時間10分44秒で優勝している。
森下が優勝した翌年の第41回大会。森下にとって因縁の関係とも言える選手が2時間8分47秒で2位に入った。その選手は黄永祚(韓国)。当時、2時間 10分の壁を破るのが悲願だった韓国陸上界にとって、2時間9分台を飛び越えて8分台を樹立した快挙に韓国は沸きに沸いた。同年のバルセロナ五輪マラソンで、黄と森下が歴史に残るデッドヒートを繰り広げ、黄が金メダル、森下が銀メダルを獲得した。別大マラソンから世界へ羽ばたき、そして最高に輝いたバルセロナでの2人だった。
最年少サブテン
第47回大会(98年)は地元・大分出身の清水昭(杵築東芝)が2時間9分11秒で初優勝を飾った。
ほとんど無名に近かった清水だが、終盤30キロから刻んだ5キロラップは14分台という世界トップクラスのハイペースだった。
清水は当時21歳。40回大会で優勝した森下広一(2時間8分53秒)より2歳若く、日本最年少「サブテン」ランナーとなった。
時の人
別大マラソンを走った外国選手で、その後、世界的に名を知られるようになった選手もいる。
第51回大会で優勝したサミー・コリル(ケニア)。優勝タイムは2時間11分45秒と平凡だった。しかし、2003年のベルリンマラソンで2時間4分 55秒の世界最高記録を打ち立てたポール・テルガト(ケニア)に1秒差で2位になったことで一躍、その名を世界に知らしめた。
そしてアテネ五輪(04年)のマラソンで終盤トップを走りながら、沿道の客に走路を妨害され、銅メダルになったバンデルレイ・デリマ(ブラジル)。デリマは第50回大会(01年)で2位(2時間10分2秒)に入っている。
世界選手権へ
これまで別大マラソンは世界選手権選考レースに5回指定された。
1回目は50回記念大会(01年)で優勝した西田隆維(エスビー食品、2時間08分45秒)が世界選手権エドモントン大会の代表に選ばれた。
2回目は54回大会(05年)。30キロ過ぎから独走となった入船敏(カネボウ)が2時間9分58秒で優勝。世界選手権ヘルシンキ大会の代表となった。
3回目は56回大会(07年)藤田敦史(富士通)と佐藤敦之(中国電力)の「アツシ対決」で注目されたが、記録が伸びず代表には選ばれなかった。
4回目は58回大会(09年)小林誠治(三菱重工長崎)、前回大会優勝の足立知弥(旭化成)やニューイヤー駅伝で活躍した秋葉啓太(小森コーポレーション)が出場したが、代表誕生はならなかった。
5回目は60回記念大会(11年)藤田敦史(富士通)、前田和浩(九電工)の「新旧対決」で期待が高まったが、2時間10分の壁をクリアできなかった。
大会記録17年ぶり更新、2人が世界選手権へ
第62回大会は別大の歴史に燦然と輝く、素晴らしいレースとなった。「最強の市民ランナー」と称される川内優輝(埼玉県庁)とロンドン五輪6位入賞の実績を誇る中本健太郎(安川電機)が28km過ぎから40kmまで激しいデッドヒートを繰り広げた。
名勝負が決したのは残り1.6km、最後の給水でスパートした川内が中本を引き離して、17年ぶりに大会記録を塗り替える2時間8分15秒で初優勝、中本も自己最高の2時間8分35秒で2位に入った。
2人は世界陸上選手権モスクワ大会の代表に選ばれた。その世界選手権では中本が持ち味の粘りに、積極性を加えたレベルの高い走りを披露、アフリカ勢と堂々と渡り合い、2時間10分50秒で5位入賞を果たした。川内は2時間15分35秒で18位だった。
大会史上初の2時間7分台
第70回記念大会の2021年は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け中止、2022年に大会規模を縮小して開催された。
この大会から、ジャパンマラソンチャンピオンシップ(JMC)のグレード1レースとして開催されることとなった。
優勝の栄冠に輝いたのは、マラソン初挑戦の西山雄介(トヨタ自動車)。大会史上初の2時間7分47秒は、初マラソン日本最高記録(2時間7分42秒、作田将希・JR東日本、21年びわ湖毎日マラソン)にあと5秒に迫る好タイムだった。8秒差の2位に入った鎧坂哲哉(旭化成)など、上位6人が「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」挑戦権を獲得した。
さらに、視覚障害者部門では、和田伸也(長瀬産業)がT11の世界新記録となる大会新記録(2時間26分17秒)で優勝。女子は東京2020パラリンピック日本代表選手の道下美里(三井住友海上)がいずれも大会初となる視覚障害選手の部の3連覇と一般女子の部との「ダブル優勝」を果たした。
※所属は当時